------------------------------------------------------------------------ ●コラム:文章が嫌い1(文章を読むのが嫌い) かくだよしあき ------------------------------------------------------------------------ 文章が嫌いだ、読むのも、書くのも、書いている人も嫌い。 だから、僕は新聞も読まないし、本も読まない。そんな暇があれば、色ん な人と会って直接コミュニケーションした方がいい。 文章を読むのは難しいし、著者の本当に言いたいことを理解する事は更に 難しい。また、その本が理解できたと思っても、本の中にかかれている文 字だけで、わかったと思ってもいいのだろうか? 僕の読書能力が低いのも原因だが、そもそも、文章にはその人の思想の一 部しか書き留められていないだろうし、本当の本心を文章に残す事をする 人は少ないだろうと思っているからだ。 文章の中には色々なことが含まれる。 本当に言いたいことだけじゃなく、気取りや自慢、文章能力の技術、表現 方法のテクニック、など。 また、過去の引用や語呂合わせの面白さなんかが含まれていて、なにかス マートすぎて、僕には奇麗事に思えて薄っぺらく感じてしまう。 文学的天才がいても、それは思想や人生を語っているのではなく、文字パ ズルをしている。悪い意味でのキャラクター(文字)オタクだという気が する。 人間の気持ちやイメージは、文章にできるほど単純ではなく、もっと感覚 的で複雑だと思うのだ。 しかも、人の心は常に多面性を持って、一瞬で考えがドンドン変化する。 そんな、心の中をどうして文章という固定された時間と空間の中に、閉じ 込められるというのだろうか? 昔、友人で、旅&鉄道マニアがいた。いつも時刻表を持っていて「今日は 北陸を旅したんだ」なんて言っている。 僕は内心「彼は何もわかっちゃいない」と、思っていた。彼には一生、真 実はわからないだろうと思った。 時刻表を見る暇があれば、近くの駅でも公園でも散歩に行けばいいのにと、 僕は思っていたからだ。 それは、こんな言葉からも言えるかもしれない。 「百聞は一見にしかず」、しかし、僕に言わせると、更に「百見は一経験 にしかず」だと思う。 100冊の例愛小説、まちがい恋愛小説を読んだとしても、1回の本当の 恋をした人とでは、根本的に違うということだ。 また、本を読むということは、自分で発見できる確率を下げてしまってい ることにもなる。 物事を知る時に、自分で発見して知り得たことと、人から伝授されたこと では、同じ事を知り得たとしても、まったく違うのである。 それは、その後のその人の方向性を決定づけることにもなる。 もし、自分で見つけたり発見できた人は、それが完全に自分のものとなっ ており、応用もしやすい。また次も、自分で見つけられるチャンスも高い のである。 しかし、人から聞いたり、本を読んで理解している人は、本当の意味にお いて理解できているとは言い難く、応用もできないのではないだろうか? そして、初めての事に出会うたびに人や本に頼ってしまうのである。 本や文章に頼ってしまうと、知識は得れても知恵は授からない。勉強はで きるが、知恵がなく応用もできない人間になってしまう。 本を読むことはそんな危険性も含んでいる。 時刻表を読んで旅をしたと錯覚している人がいるのと同じように、伝記を 読んでその人を理解したつもりでいたり、物語を読んでその主人公の気持 ちがわかったなどという、そんな薄っぺらさが、僕は嫌いでなのである。 人の経験したことや過去の人の目を借りて、世の中や思想を見るのだけで なくではなく、自分自身が色々な事にドンドン挑戦し、自分の目で、今を 感じて生きていく方がいいのではないのかと思う。 織田信長が知りたかったら、現代の織田信長に直接会いに行ったほうが、 いいと思う。本当にスゴイ人達は、結構会ってくれたりするもんだ。 本は確かに知識を与えてくれて、色々なキッカケにはなるかもしれない。 しかし、本の中にその人にとっての真理はない、と僕は思う。 <つづく> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【文章が嫌い・4部作(予定)】 ●文章が嫌い1(文章を読むのが嫌い) 7/12 ●文章が嫌い2(文章を書く人が嫌い) 7/19 ●文章が嫌い3(書いている自分が嫌い) 7/26 ●文章が嫌い4(嫌い・嫌い・嫌い) 8/02 |
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